母親から引き離された経験を持つブレンダンさんの「ウェルカム・トゥ・カントリー」はとてもパーソナルなものです

「ウェルカム・トゥ・カントリー」とは、オーストラリアの先住民が自分たちの土地に、他人を正式に迎え入れる儀式ですが、ブレンダン・ケリーさんにとっては、先住民の歴史と、彼自身のストーリーを語り続ける機会でもあります。

Brendan Kerin

Brendan Kerin was removed from his mother as a baby in a forced adoption. Source: Supplied

「私の母は5歳のときに、祖母の腕の中から引き離されました」とSBSニュースに語るのは、マラワラとバーキンジ族の男性、ブレンダン・ケリーさんです。

「そこから2週間、留置場で過ごした後、母はクータムンドラ・ガールズホームに送られました」

ニューサウスウェールズ州で暮らしていたアボリジニの少女たちは、当時、家族から引き離され、ティーンエイジャーになると、白人の家で働くために召使として送り出されていました。

ブレンダンさんの母親の話は悲劇的ですが、実は、ブレンダンさん自身のストーリーと酷似しているのです。

「私は1971年、サリーヒルズのクラウン・ストリート・ウーマンズ・ホスピタルで生まれましたが、その病院で母から引き離され、彼女に会うことは二度とありませんでした」
Brendan with his adopted parents, Barbara and David Kerin. He would later discover his surname at birth was 'Mitchell'.
Brendan with his adopted parents, Barbara and David Kerin. He would later discover his surname at birth was 'Mitchell'. Source: Supplied
「私は不法に養子に出されました。父はテネント・クリーク出身の アボリジニで、母は白人でしたが、子供を持つことができず、私を養子として迎え入れたのです。結局、彼らは自分たちの子供を5人産みました」

ブレンダンさんによると、当時病院では違法な養子縁組が横行しており、他の連れ去られた子供たちも似たような経験を話していたと言います。
Brendan's last name at birth was 'Mitchell'. He never met his birth mother or father.
Brendan's surname at birth was 'Mitchell'. He never met his birth mother or father. Source: Supplied
「彼らは養子縁組のための同意を双方の両親から得ていませんでした」

「生まれて間もなく、赤ちゃんは母親から引き離され、なかには『赤ちゃんは死んだ』と伝えられた母親もいました」

「母親らは書類にサインさせられ、その後自分の子供に会うことはありませんでした」

アボリジニ土地評議会の文化代表であるブレンダンさんは、「ウェルカム・トゥ・カントリー」のスピーチで、このように組織的にアボリジニの子供の連れ去りが行われていたことについて触れるようにしています。
Brendan Kerin performs Welcome to Country and Smoking ceremonies.
Brendan Kerin performs Welcome to Country and Smoking ceremonies. Source: Western Sydney Local Health District
マラワラ族とバーキンジ族の伝統的な土地は、ニューサウスウェールズ州の西部、そして南オーストラリア州に位置します。

「ウェルカム・トゥ・カントリー」とは、会議やイベントが開催される土地で行われる儀式であり、ほとんどの場合は長老が行います。これは何千年にもわたる伝統に沿ったもので、訪問者に安全な通行と保護を提供することを目的としています。
「育った環境が、今の自分を作ってきたようなものです」とブレンダンさんは語ります。

「先住民でない人々の前に立ち、彼らを国に迎え入れることは大きな名誉であり、心からの受け入れなければなりません」

「私の歴史は皆の歴史であり、共有される必要があります。風化させてはいけないのです」

そのため、ブレンダンさんの「ウェルカム・トゥ・カントリー」を耳にしたことがある人は皆、彼のパーソナルな物語も知っているのです。
ブレンダンさんは、母親と再会を果たすことができず、その結果、自身のアイデンティティについて葛藤しながら幼少期を過ごしました。

「私は、黒人と一緒にいられるほどの黒人でもなく、白人と一緒にいられるほどの白人でもなく、独りぼっちでした 」

「12歳のときに自分が養子であることを打ち明けられましたが、20代前半になるまでは自分のカルチャーやアイデンティについて理解することはできませんでした。
Brendan in his adopted grandparent's backyard in the late 1970s.
Brendan in his adopted grandparent's backyard in the late 1970s. Source: Supplied
14歳の頃には、後に「ベネロングズ・ヘブン・ファミリー・リハビリテーション・センター」と呼ばれるようになった「キンチェラ・ボーイズ・ホーム」に送られ 、 アルコールのリハビリテーションを受けていたというブレンダンさんは、そこで3年間過ごしました。

「私は毎日のように飲み、常に怒っている若者でした」

「しかし、ベネロングズ・ヘイブンで、州内から集まった黒人とともにリハビリを受けるなか、彼らの経験が私のものと似ていることに気づき、救われました」

ブレンダンさんにとって、センターで過ごした時間は非常に重要でした。

「子供の頃、私たちはメディアでネガティブな描写しかされいませんでした。アボリジニに関することはネガティブなものばかりでした...飲酒、喧嘩、家庭内暴力、ドール・ブラッジャー(失業手当に頼り、働かない)と...」

「私は、自分もそうあるべきだと思って育ちました。それが唯一、私の人生の中でアボリジニであることを教えてくれたからです」
しかし、彼は自身のカルチャーと繋がることで、新な方向性を得ることができました。

「ディジュリドゥを弾き始め、ダンスを始め、絵を描き始めました」

「ストールン・ジェネレーションの世代の人々は、自分たちの居場所を見つけようとしています」

アイデンティティの再発見

ブレンダンさんは、自分が何者であるかをよりよく理解するために、アボリジニのヘルスケアとトラウマカウンセリングの資格を取得するための勉強をし、他人を助けるための新たな道を歩み始めました。

「これまでの人生の中で、唯一修了したものでした」と彼は言います。

「薬物やアルコール、メンタルヘルスなどの資格が後に続きました。私の役割は常にヒーラーのようなものです。コミュニティで働くのが大好きです」
Brendan with three of his eight children,  Tre Marrawarra (6) , Zamzi Mae (5), Cash Paaka (3).
Brendan with three of his eight children, Tre Marrawarra (6) , Zamzi Mae (5), Cash Paaka (3). Source: Supplied
多くの試行錯誤と自己反省を経てきたブレンダンさんは、現在8人の父親でもあります。

そんな彼に転機が訪れたのは6、7年前。母親に再開できたことであると語ります。

「母の墓をダートン(ニューサウスウェールズ州西部)で見つけ、それ以来、年に一度は会いにいくようになりました」。

ブレンダンさんは、自分の経験を共有することで、彼のストーリーのみならず、何千人ものオーストラリアの先住民の物語に少しでも近づいてもらうことを願っています。

「白人が入植して250年以上になりますが、この国がどのようなダメージを受けてきたのか、その歴史を見れば証拠はあります」

「白人をこの国に迎えるということは、多かれ少なかれ、それを受け入れてほしい」と言っているのです。

 

1月26日、では、オーストラリア先住民の視点をより深く理解してもらうことに焦点を当てた特別番組、特別イベント、ニュースハイライトをお届けします。 #AlwaysWasAlwaysWillBe で会話に参加してください。

 

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Published 26 January 2021 8:44am
Updated 26 January 2021 8:47am
By Jennifer Scherer
Presented by Yumi Oba


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